今から40年前、私が19歳と20歳のときに新聞奨学生として横浜の新聞販売店で働いていました。
実家を飛び出し、新聞販売店が用意してくれたボロアパートに住んでいました。
木造の築50年は経っている4畳半1間で、トイレは共同でした。風呂は銭湯でした。
浪人をしていました。
予備校には通わずに、旺文社のラジオ受験講座だけを頼りに勉强をしていました。
先がまったく見えずに不安な毎日でした。
新聞販売店の経営者夫妻には、子どもが3人いました。
当時経営者夫妻は30歳代半ばでした。
子どもは5歳・3歳・産まれたばかりの赤ちゃんでした。
新聞販売店には、専業さんが1人、神奈川大学に通う新聞奨学生が1人、浪人生の新聞奨学生が私を含めて2人いました。
経営者夫妻は、従業員を可愛がってくれました。
経営者夫妻の子どもも、私達をお兄ちゃんと呼んで慕ってくれました。
実家を飛び出して寂しく生きていた私にとって、それが救いだった気がします。
私より3つ上の専業さんと、私と同じ歳の浪人生は、特に仲が良く、その後も連絡を取り合っていました。
結婚式にも呼ばれました。
経営者夫妻とも数年に一度は会っていました。
本日、経営者夫妻の次女からLINEが来ました。
愛媛に移住して、みかん農家を始めたそうです。
結婚して娘が2人います。
彼女もすでに43歳です。
みかんができたら送ると書いてありました。
涙が出てきました。
40年前は3歳だった女の子です。
家族と疎遠な私は、想いが繋がっている他人の存在がとてもありがたいです。
人間が生きていくためには、想いがつながっている人が必要だと実感しました。
幸せって、想いが繋がる人の数で決まるのではないかと思います。