糸が切れた凧の毎日

これまで散々世間に迷惑をかけてきたので、これからは世間に恩返しをする番だと思っています。 周りの人の心に火を灯し、少しでも元気になってもらえれば、私も元気になれます。

新聞奨学生だったころ(その2)

新聞奨学生の2年目は1982年(昭和57年)のことであった。

私は二十歳になっていた。

同じ専売所で浪人2年目を迎えた。

明治大学に合格し、去って行った同僚の代わりに、私と同じ歳の浪人2年目の人が配属された。

後から聞いたのだが、彼はだいぶいわくつきの人だったらしく、2年後に性犯罪で逮捕された。

 

私は予備校には通わずに、ボロアパートで受験勉強を続けた。

実は、専売所の所長夫妻と専業さんは、ある宗教の会員であった。

新しく配属された浪人2年目の人も同じ宗教の会員であった。

そこで、私もその宗教に誘われることとなった。

 

1人で勉強するのは、精神的にとても忍耐が必要なことである。

そこで、旺文社のラジオ受験講座を聴くことにした。

勉強のペースメーカーにするためである。

しかし、眠気には勝てずに、寝てばかりの日々を過ごしていた。

起きたときには後悔の毎日であった。

 

当時、高校時代の仲の良かった同級生2人が、横浜国立大学に現役で入学していた。

3カ月に1度くらいは、彼らと会って話をしていた。

それが唯一、同世代の若者のライフスタイルを実感できる時間であった。

勉強やアルバイト、サークル活動などの大学生活を謳歌している彼らが羨ましかった。

2年前には同じ学校で学んでいたのに、彼らは国立大学の2年生、自分は新聞配達の2浪生、あまりにも違い過ぎた。

自分の人生を何とかしなければと焦ってばかりいた。

 

その年は成人式の日と、大学共通一次試験(現:大学入試センター試験)の日が一緒であった。

同じ歳の若者が、スーツや振袖を着て成人式会場に向かうのと逆行して、試験会場に向かう自分がいた。

 

結局、その年にも国立大学には合格できなかった。

そこで一念発起して、新聞奨学生を辞めて、故郷の静岡に帰ることにした。

 

両親に頭を下げ、自宅に住まわせてもらい、同級生のつてで、ある個人塾の講師として働くことになった。中学生の英語の授業を毎日3時間担当した。

1カ月3万円くらいの給与であった。

それでも大学受験料と交通費を貯めることはできた。

当時30歳の塾長は、兄貴みたいな存在で、3浪中の自分に勉強を教えてくれた。

その塾には高校3年生の受験生が数多くいた。その中に混じり、勉強をした。

自宅ではなかなか勉強する気にはならないが、塾では勉強がはかどった。

学力が付き、その年には、地方ではあるが国立大学と有名私立大学に合格することはできた。

今でも、その塾長は命の恩人だと思っている。

彼がいなかったら今の自分はない。