糸が切れた凧の毎日

これまで散々世間に迷惑をかけてきたので、これからは世間に恩返しをする番だと思っています。 周りの人の心に火を灯し、少しでも元気になってもらえれば、私も元気になれます。

新聞奨学生だったころ(その1)

ゴールデンウィークで時間があるので書いてみようと思う。

新聞奨学生になったのは1981年(昭和56年)のことであった。

高校はなんとか地元の静岡の進学校には入学できたものの、成績はほとんどビリに近い方であった。

運動部に明け暮れ、勉強はほとんどしなかった。

両親から「国立大学にしか行かせる金はない」と言われていた。

高校3年生で部活を引退してからも、大学受験の勉強には身が入らず時間が過ぎていった。

国立大学1校と私立大学2校を受験したが、当然合格できなかった。

両親とは仲が悪かった。

母親が過干渉で、小学校のときから多くの習い事や塾に通わされていた。

夜はつきっきりで勉強を教えてもらっていた。

問題を間違えたときには棒で殴られていた。

鉛筆を太ももに刺されたこともあった。

現在では児童相談所に通報されているレベルであろう。

今でも母親とは音信不通なのはその影響である。

大学に合格しなければ家での居場所もない。

同級生で新聞奨学生を考えていた友人がいた(彼は結局、新聞奨学生にはならなかった)。

それを聞いて、自分も資料請求をして、新聞奨学生に申し込んだ。

採用と同時に横浜の専売所への配属が決まった。

高校卒業と同時に、机と布団と服を持って、家を出た。

配属されたのは、所長夫妻と専業さん1人、新聞奨学生3人の小さな販売所であった。

所長さんは35歳、専業さんは22歳、新聞奨学生は21歳の大学3年生1人、私と同じ高卒すぐの19歳の浪人生であった。

専業さんも含め、新聞奨学生は築40年は過ぎているであろう4畳半の木造のボロアパートであった。当然、風呂なし、トイレは共同であった。

朝は4時起きで、専売所には新聞に折り込みチラシを入れる機械がなかったので、すべて手作業であった。

私は配属が遅かったので、専売所から一番遠い地域が担当になった。

港湾労働者が働く団地が担当であった。必死に団地を上がり下がりして新聞を配っていた。

それでも慣れれば1時間30分程度で配達できる量であった。

夕刊も集金も勧誘も担当した。

朝・晩の食事は所長さんの奥さんが作ってくれた。

専売所の若い所長さんは、ギャンブル好きであった。専売所の隣が喫茶店で、ポーカーゲームに入れ込んでいた。

そのうちに、所長さんと専業さんと私を含めた2人の浪人生で麻雀をやるようになった。

夜は朝刊の配達時間まで麻雀をやるようになった。

私は、昼間は予備校に通っていたのだが、麻雀をやるようになってからは予備校を辞めた。辞めたというか、眠くて通えなくなった。

後から聞いたのだが、若い所長さんは、大学生の新聞奨学生から借金をしていたようである。

私はいつの間にか受験勉強から遠ざかっていった。

当然、大学共通一次試験(現:大学入試センター試験)を受験して、国立大学を目指したのだが不合格であった。

もう1人の浪人生は、明治大学の2部に合格して、明治大学の近くの専売所に移っていった。

そして、新聞奨学生の2年目が始まった。