糸が切れた凧の毎日

これまで散々世間に迷惑をかけてきたので、これからは世間に恩返しをする番だと思っています。 周りの人の心に火を灯し、少しでも元気になってもらえれば、私も元気になれます。

恩師の訃報

毎年届く大学の恩師の年賀状が今年は来ませんでした。

昨日の1月22日に息子さんからの訃報の手紙が届いていました。

11月27日に亡くなったとのことでした。

87歳でした。

大学3年・4年のときのゼミの恩師です。

私は農業機械の研究室に所属していました。

長野県の諏訪出身の少し理屈っぽいが涙もろい先生でした。

毎年の年賀状には、世相を鋭い観点で批評した文章を印刷してありました。

私は卒業してから33年が経過しましたが、恩師には一度も会いませんでした。

年賀状だけはやり取りしていました。

私は好きで農業機械の勉強をやりたかったわけではありません。

親に国立大学しか行かせられないと言われたから、入れる大学に入っただけです。

大学の勉強はほどんどやりませんでした。

当時の大学では、授業は友人に代返してもらい出席になり、試験はカンニングで何とかなりました。

私は親からもらえる仕送りが少なかったので、アルバイトばかりの生活でした。

恩師との出会いはとても不思議なものでした。

大学1年生のときに、恩師が授業を出席を取った後に、友人3人と教室を抜け出しました。

授業をサボるためです。

教室を抜け出したことを恩師にばれて、次の授業で教室の前に呼び出されました。

「君はなぜ授業を抜け出したんだ?」

大勢の学生の前で質問されました。

「先生の授業がくだらなかったからです。」

と答えてしまいました。

すると、恩師は、

「気に入った!君のように自分の意見をしっかり言える若者は見込みがある!私の研究室に入りなさい!」

恩師が発行しているゼミの新聞にもそのことを書かれて、私の下宿にも届きました。

それが恩師との出会いでした。

血気盛んな人でした。

労働組合の委員長もやっていたそうです。

在職中に奥さんを亡くし、一人暮らしになりました。

70歳を過ぎてから老人ホームに入ったようです。

毎年の年賀状には、盛んに活動してる様子が書いてありました。

それが、今年の年賀状が途絶えてしまいました。

ふと脳裏をよぎるものがありました。

息子さんからの訃報のハガキをもらったときに、ポストの前で泣いてしまいました。

学生時代に世話になっていながら、先生が斡旋してくれた有名企業には入りませんでした。

何となく受験した大学院の試験では、事前に論述のテーマを教えてくれました。

大学院に進んで、研究者としての道筋を付けてくれたのに、それも経済的な理由で断りました。

自分の不義理に腹が立ちました。

大学を卒業後に先生に会うのが怖かった。

決して良い人生を歩んでいるわけではないので会えなかった。

そして35年もの歳月が経過し、二度と会えなくなってしまった。

私も58歳になり、人生の先も見えてきました。

会いたい人には会っておこうと思います。