結局、新聞奨学生を浪人生活の2年間で経験して良かったと思っている。
それは57歳になって思うことである。
自分の人生が幸せかどうかは、自分が棺桶に入るときに決まると思う。
「何もなくて良い人生だった」と思うのか、
「いろいろあったけど、最後は良い人生だった」と思うのか。
後者だと思えるからである。
自分が新聞奨学生だったことを53歳まで誰にも話をしなかった。
新聞奨学生の経験が恥だと思っていたからである。
妻にも話さなかった。
4年前に妻が家を出る形で別居して、残された22歳の長男と19歳の次男と話をしたときに、自分の人生を初めて息子に語った。
38年前に新聞奨学生を始めたのは、誰にも相談せずに決めた。
両親とは仲が悪く相談ができなかった。
半ばやけくそになって行動していた。
着の身着のまま故郷の静岡を出て、横浜に移った。
配属された専売所は良い環境ではなかったかもしれない。
大学の受験勉強をすべき環境ではなかったかもしれない。
結局、大学に合格できなかったから。
しかし、当時の専売所の仲間とは、今でも交流を続けている。
今では年賀状だけのやりとりになってしまったが、20歳代の頃は頻繁に会っていた。
新聞奨学生1年目の同じ歳の浪人生で、明治大学の2部に合格した人は、宮城県で小学校の教員をやっている。彼の結婚式にも呼ばれた。
3つ年上の専業さんは、今では東京で会社専属のハイヤーの運転手をしている。彼の結婚式では司会を頼まれた。
専売所の所長さんの奥さんは6年前に亡くなった。葬儀に参列した。
所長さんと会おうとしたが、合わせる顔が無いと言って、会ってくれなかった。
所長さんは新聞屋さんからそば屋さんに転職したが、経営がうまくいかずに廃業した。
あのときの仲間は還暦に近い年になっているが、あの経験をどう思っているのだろうか?
私は人生に行き詰ったことが何回かある。
自分の社会に出る原点は新聞奨学生であった。
自分の原点を思い出すために、専売所を訪れ、配達していた区域を回ったことがある。
今では、専売所はないが、配達していた区域の港湾労働者の団地は残っている。
ひざに穴が開いた汚いジャージで配達していた頃を思い出すと涙が出てくる。
人生の階段を一歩一歩上ってきたことは実感できる。
まだまだ階段は続いている。
ここで歩みを止めるわけにはいかない。
自分の最後の舞台である令和の時代で燃え尽きたい。
棺桶に入る前に、「いろいろあったけど、最後は幸せだった」と思って死にたい。