糸が切れた凧の毎日

これまで散々世間に迷惑をかけてきたので、これからは世間に恩返しをする番だと思っています。 周りの人の心に火を灯し、少しでも元気になってもらえれば、私も元気になれます。

39年前の原点に戻ってみた

本日は代休を取り、一人で横浜に車で出かけた。

自宅から高速道路を走って2時間程度のドライブ。

39年前の自分の原点に戻りたいからである。

大学受験に失敗し、もともと両親と仲が悪かった私は、誰にも相談せずに新聞奨学生をやりながら予備校に通って浪人をすることを決めた。

両親からは、「国立大学しか進学させない。」「浪人もさせない。」と言われていた。

だから人生が行き詰まってしまった。

自分が勉強しなかったのが悪い。

友人から紹介された新聞奨学生に申し込んだら、配属先が横浜の中区の新聞販売店になった。

静岡の実家を、家出同然で飛び出した。

実家から持ち出したものは、勉強机と布団一式であった。

横浜は、私が一人暮らしを始めた場所である。

そこからは、実家にも寄り付かず、糸が切れた凧のような人生が始まった。

配属された新聞販売店には、私の他に新聞奨学生が2人いた。

私は新聞奨学生に申し込んだのが一番遅かったので、配達する区域が新聞販売店から一番遠い場所になった。

港の近くの大きな団地であった。

港で働く労働者の団地であった。

生活が乱れた住人が多かった。

エレベーターの中には吐いたものが散乱していることもあった。

不良の中学生にからまれたこともあった。

新聞は1階のポストに入れるのではない。

玄関のポストに入れる。

だから団地の建物の中を上から下まで走って配達した。

雨の日も、風の日も、寒い日も、暑い日も、朝4時に起きて、休まずに配達した。

それを2年間続けた。

当初通っていた予備校は行けなくなって辞めてしまった。

人生の転落の一途であった。

本当に精神的に苦しい毎日であった。

新聞配達をしながら2浪して、旺文社のラジオ講座を聞きながら大学受験の勉強は続けていた。

しかし、将来がまったく見通せない苦しみは今でも思い出す。

何があっても国立大学に行くという目標だけは捨てなかった。

目標があったからこそ復活できて、今の自分がある。

そう思うからこそ、人生で苦しいことがあったときには、この原点に戻りたいと思う。

39年前に自分が新聞を配達していた団地はそのままあった。

車を置いて、団地の中を歩いてみた。

建物の中に入って、エレベーターで最上階の7階に行ってみた。

そこから見える景色は、39年前の景色そのものであった。

港の大きなクレーン。とてつもなく大きなコンテナ船。行き交う大型トレーラー。

新聞を配達しながら、国立大学へ行って人生這い上がってやると思っていた。

思い出していたら、自然と涙が出てきた。

人生は今も苦しい。

しかし、あのときはもっと苦しかった。

あのとき頑張った経験があるからこ、そ今の自分があることは確かである。

だから今の苦しみに耐えて頑張らなければ、未来の自分が無いと思う。

人生は苦しみの連続かもしれない。

でも、それでも死ぬときに、最後は幸せであったと思いたい。