糸が切れた凧の毎日

これまで散々世間に迷惑をかけてきたので、これからは世間に恩返しをする番だと思っています。 周りの人の心に火を灯し、少しでも元気になってもらえれば、私も元気になれます。

自分の歳を実感しました

このところ仕事に忙殺されてブログを書く機会が減っています。

61歳にもなって仕事があるというのは幸せなことかもしれません。

昨日は、専門的なシンポジウムに仕事で参加しました。

そこで高校生のプレゼンを聞くことができました。

17歳の女子高生のプレゼンです。

「なぜ政治家の閣僚に年寄りが多いのか」というものです。

実名こそは出さなかったものの、麻生太郎さんや二階堂俊博さんの写真を出していました。

彼女がやり玉に挙げた閣僚の平均年齢は62歳。

私より1歳上です。

62歳の世代と、17歳の世代の、生きてきた環境の違いからくる価値観の乖離を話していました。

62歳の世代が生まれた年に、テレビのカラー化が始まったそうです。

そう言えば、私の実家は貧しかったのでいつまでも白黒テレビでした。

小学校2年生のときにカラーテレビを初めて購入して感動したのを覚えています。

17歳の女子高生は、生まれる前の年からiPhoneがありました。

今やテレビなど見ないそうです。

YouTubeInstagramなどのSNSで見たい映像を見るそうです。

メールも使わない。

すでにLINEも使わなくなっている。

InstagramのDMを使っているそうです。

SNSの写真は盛らない。

自然体を追求しているそうです。

SNSのフォローワーの数も気にしない。

自分に共感してくれる人だけで良いそうです。

もうインスタ映えなどという言葉も死語だそうです。

20年後には、こんなZ世代やデジタルネイティブの世代が人口の半分以上を占めます。

急激に変化している国民の価値観の中で、いつまでも昭和の価値観を国民に押し付けている老害は、若者からしたら邪魔な存在なのです。

若い社員は、管理職になりたくない、定時に帰りたい、有給休暇は全部使いたい、と言います。

仕事をバリバリやって、早く出世して、強い権限と、できるだけ高い給料が欲しいと思っていた私は何だったのでしょう。

私の人生は仕事だけでした。

時代が変わったことを痛感したのでした。

羨ましい幸せな父親

42年前の19歳と20歳のときに新聞奨学生としてお世話になった横浜の新聞販売店の店主と何年かぶりに会いました。
店主は、大病を患い、隠居するために愛媛県の次女の近くに引っ越すのでした。
新聞奨学生のときに、その店には22歳の専業さんがいました。その専業さんとは、その後も連絡を取り合っていました。
その専業さんから連絡があったのでした。
恐らく会えるのは最後だから、引っ越す前に会っておこうとのことでした。
錦糸町の個室の居酒屋で会いました。
店主とその長女、専業さんと私の4人でした。
私が新聞奨学生だったときには、店主は36歳、長女は3歳、専業さんは22歳、そして私は19歳でした。
それが、今や店主は78歳、長女は45歳、専業さんは64歳、そして私は61歳です。
食事をしながら2時間くらい話をしました。
店主は、中卒で新聞配達になり、いくつかの新聞販売店を経営した後に、蕎麦屋の店主になり、先月まで介護施設で働いていたそうです。私が新聞奨学生だった頃は、ギャンブルにのめり込んでいて、かなりの借金があったようです。人生でかなり苦労をしたそうです。最近もだいぶお金に困っているようでした。
年金も月3万円くらいしかもらえないそうです。だから、愛媛の次女の近くに引っ越しても、生活保護を受けると言っていました。話をしていても、ボケが始まっているようで、記憶があいまいなところがありました。そのために働いていた介護施設をクビになったと話していました。
店主には、娘が2人、息子が1人います。長女と次女がとても優しい人で、店主の老後の面倒は愛媛の次女が見るそうです。店主は次女と同居はしないので、近所にアパートを借りて1人暮らしをするそうです。3日後に引っ越しをするとのことで、これが今生の別れになるであろうと思いました。
私は手土産を持って再会しました。別れる最後には、店主の手を握って、「若い頃はいろいろとお世話になりました、感謝しています」と伝えました。
店主の記憶がはっきりしているうちに感謝の気持ちを伝えられて良かったと思いました。
自分の人生は、いろいろな方にお世話になって成り立っています。
どんな方でも、自分の人生に影響を及ぼしてきました。
試練も自分が成長する機会であったと思います。
解散した後に、長女からLINEが来て、「父が今まで築いてきた人間関係の素晴らしさに感動しました」とありました。
どんな父親でも、娘がしっかりした人間に育つのだと思います。
私が店主の年齢になったときには、孤独な老後になっているのだろうと思います。どんな人生でも家族から慕われる父親は幸せだと思います。そんな父親が羨ましいです。

自分で自分を褒めてあげたい

自分で自分を褒めてあげたい。

有森裕子さんが、1996年のアトランタ五輪女子マラソンで銅メダルを獲得した際に言った言葉です。

最近、自分の毎日の生活を考えたときに、頑張っていると思いました。

一生懸命生きています。

朝5時40分に起床して、朝食を食べ、シャワーを浴び、身支度を整え、6時30分に家を出ます。

車で駅に行き、駅近くの駐車場に車を置き、6時50分の電車に乗ります。

8時10分に出社して、仕事を始め、18時頃に退社します。

会社の最寄りの駅から電車に乗り、19時30分頃に自宅の最寄りの駅に到着します。

車で自宅に到着するのは20時前です。

自宅に着いたら着替え、台所で洗い物をして、ご飯を炊きます。洗濯機を回します。

21時30分頃に、残業で遅くなった次男を車で勤務先まで迎えに行きます。

次男の勤務先は車で15分くらいのところにあります。

帰るときに、大型スーパーで夕食の総菜を購入して22時頃自宅に戻ります。

それから食事をして、布団に入るのは22時40分頃です。

そんな毎日が続いています。

コロナから飲み会も無くなりました。

それまでは、会社の愚痴を言うだけ、話すだけの飲み会が多かったです。

本当に無駄な時間を過ごしていたと思います。

不規則な生活をしていました。

しかし、現在は規則正しい生活をしています。

家事も得意になってきました。

あとは料理ができるようになれば一通りの家事はできます。

体調が悪くなったときには、「頑張るぞ」と自分に言い聞かせていれば、寝込むことはありません。

生きていくためには、自己効力感が大事だと痛感しています。

自分を褒めることで自己効力感を上げていきたいです。

前に一歩踏み出すためには、自己効力感が必要です。

会うのが最後になるかもしれない

42年前の19歳と20歳のときに横浜で新聞奨学生で浪人をしていました。

高校卒業と同時に家出同然で静岡の実家を出ました。

両親とは不仲で、実家にいるのが嫌だったからです。

国立大学にしか進学させないと言われ、合格できなかったので家を出ました。

新聞奨学生に応募して、横浜の小さな新聞販売店に配属されました。

22歳の専業の男性、22歳の神奈川大学の4年生、私と同じ歳の浪人生と、私の4人で配達をしていました。

そのときの22歳の専業の方とは、それからずっと交流をしていました。

彼の結婚式の司会も頼まれました。

その彼から何年かぶりにLINEが来ました。

当時の新聞販売店の店主が、大病を患ったということでした。

そして、店主が東京から愛媛に引っ越すので、最後に会わないかという連絡でした。

42年前のことが頭に浮かんできました。

新聞配達と勉強の両立はできませんでした。

配達や集金で疲れてしまって、予備校にも行かなくなり、勉強から遠ざかっていました。

結局、夜は麻雀の日々になりました。

堕落した生活になりました。

私にとって黒歴史だと思います。

2年間そんな生活を続けたのですが、人生を軌道修正するために、3年目に静岡の実家に戻り、塾の講師のアルバイトを続けながら、国立大学に合格することができました。

新聞販売店の店主は、横浜の新聞販売店の経営を諦め、浅草で蕎麦屋雇われ店長になりました。その後、介護の仕事に転職をして、現在に至ります。

現在、

店主だった方は77歳。

私は61歳。

LINEで連絡をくれた専業の先輩は64歳。

店主だった方は、後期高齢者です。

副腎と腎臓に腫瘍が見つかって、手術が必要だそうです。

店主の奥さんは10年前に亡くなりました。

次女が愛媛にいるので、愛媛に引っ越すそうです。

だから、これが最後に会うチャンスになります。

正直言って会うかどうかを迷いました。

店主はギャンブル好きで、借金をしていました。

模範的な人間ではありません。

しかし、私の青春の2年間を一緒に過ごした人です。

迷いに迷って会うことにしました。

どんな方でもお世話になったことには変わりないですから。

2年間の新聞配達は、将来が見えない真っ暗闇の中で、1人で必死にもがいていました。

心が強くなったと思います。

1人で生きていける自信が付きました。

ギャンブル好きの店主は、私の反面教師だったかもしれません。

だから感謝すべきです。

明後日の日曜日に上野で会います。

今の私があるのは彼のおかげでもあるからです。

ゆでガエルになっている

「ゆでガエル理論」って知っていますか?

危険が迫っているにもかかわらず変化がゆるやかなため気がつかず、気づいたときには手遅れになっている、という状況をあらわす言葉です。 

会社の中でも、急激に売り上げが減っている部門は、危機感を感じて社員が必死に動いているのですが、正直言って手遅れだと思っています。

何年も前から、この状況になることが分かっていたはずなのに、「まだ大丈夫だ」と言って、何の手も打ってこなかったわけです。

伝統がある会社ほど、管理職が過去の成功体験にこだわり、前例踏襲を続けています。

頭の中が、平成の時代なのです。ひょっとすると昭和の時代かもしれません。

社会の変化に気付いていない。

社外に目を向けて、アンテナを張っていないと、社会の急激な変化に気付かない。

管理職がコンフォート・ゾーンを出ないことが原因です。

変化の激しい時代ほど、管理職が自分をアップデートする必要があります。

変化に合わせて、サービス内容を変えないと、消費者がそっぽを向いてしまう。

組織を変えるには、「システム」を変えるか「人」を変えるしかない。

既存の社員が新しいシステムを構築できるわけがない。

社外から人を入れて新しい風を吹かせるしかない。

0ベースから変化するしかない。

私は社外から来た人なので、組織を変えるためのカンフル剤になろうと思ったのですが、実は組織の上層部のホンネは「自分の立場を脅かすような組織には変わって欲しくない」です。

業績が悪くなり、組織変化を進めると言っている人ほど、そのような考えなのは、私は今までのサラリーマン生活で十分理解しています。

そんな人たちと喧嘩しても意味がないです。

私は、若手が成長して、職務経歴書に書けるような業績を上げて欲しいのです。

会社が人生を保証しないことは、61歳までに4回転職した私が一番良く知っています。

ロートルはどうでも良いです。

私もロートルだと思いますが、老害にはなりたくないです。

若手が成長することで、組織が成長します。

人口減少によって、会社の経営が厳しくなりますが、若手にとっては良い環境だと思います。

この厳しさの中で、試行錯誤することで実力が付くからです。

会社の金を使って、成長できるなんて幸せです。

会社は人生を保証しません。

人生を保証するのは自分の実力だけです。

そんな話を若手にしています。

自分ができる社会貢献

朝起きて疲れていたのでそのまま布団から出ませんでした。

本日は有給休暇にしました。

たまに緊張の糸が切れて、やる気がまったく無くなることがあります。

1年に1度くらいあります。

大きな業務を担当していたときには、2週間くらい休みが取れないこともざらにありました。

そんなときには精神が張りつめているので、疲れを感じないです。

思い起こすと、そんな状況は幸せだったのかもしれません。

今では責任がある立場ではないので、そんな気持ちにはならないです。

いつ休んでも問題はないからです。

周りの人から期待されているというのは生きる原動力になります。

 

4年後の定年退職後のことを考えると、第一の不安は経済的なものです。

今ある貯金や年金で生活ができるかどうかです。

幸いにも私は贅沢な暮らしをしていないので、高価なブランドを使いたいとか、高級な食事をしたいという願望はほとんどないです。

健康に生活できるレベルならば良いと思っています。

第二の不安は、生きがいです。

組織から出ると、人との繋がりが無くなります。

同じ会社を退職した人が、たまには飲み会を開くことは知っています。

しかし、たまに会って、体の調子や孫の自慢話をしている程度のようです。

私が61年間生きていて、自分の生きがいは「あなたがいて良かった」と言われることのような気がします。

これは、マズローの欲求5段階の「承認欲求」ではなく、「自己実現欲求」だと思います。

人生の第四コーナーで、何か社会に恩返しをしたいという気持ちです。

私が今できることは、若者を育てることだと思っています。

昨晩は、オンラインで転職支援をしました。

ボランティアで25歳の2人の方と話をしました。

一番大事なことは、若者を元気づけることです。

自己肯定感の低い若者が多いです。

私が若い頃は景気が良かったので、努力がお金に結びつきました。

しかし、今の若者は、日本という沈む船に乗っているので、元気も出ません。

元気が出なければ、行動もしません。

頑張れば頑張っただけ、お金ではなく、成長という対価をもらえる話をします。

行動すれば、経験が積めます。

行動して、失敗しても、真摯に反省して、問題点を見つけ、改善活動を続ければ成長できます。

PDCAサイクルを回した数が成長に繋がります。

PDCAサイクルを回す心のエンジンが大切です。

行動する力とストレス耐性があれば、PDCAサイクルを回して成長します。

労働市場での自分の価値を高めれば、転職も可能になります。

こんな話を若者にしながらも、

実は、私が若者から元気をもらっています。

若者が志望している企業に転職できることが私の喜びでもあります。

若者から感謝の言葉をもらうことが自分の活動の原動力になっています。

若者を元気にしているつもりが、自分が若者から元気をもらっているのです。

転職活動のテクニックはWEBでいくらでも探せます。

私は、若者の心に火を灯すことを続けたいと思っています。

それが私ができる社会貢献だと思っています。

過去の自分からのメッセージ

2月29日に4年前の自分からメールが届いた。

なんとなく思い出したのだが、うるう年の2月29日に4年後の自分に向けてのメッセージを発信できるシステムを利用していた。

文面を読むと、当時のことが思い出された。

当時の私は57歳。

自分が前職のある部署の統括室長で必死に頑張っていたこと。

次男が就労移行支援施設を卒業して、その施設で働き始めたこと。

次男が自立できるかもしれないので、自分が一人暮らしになっているかもしれない。

つらつらと未来への明るい展望を描いていた。

しかし、4年後の現実はまったく違っていた。

前職の統括室長で過去最大の成果を出したが、違う部署に異動し、60歳の役職定年を迎えて、違う会社に転職したこと。

次男が就職した就労支援施設は、障害者雇用補助金目当ての会社で、障害者を食い物にしていたので、半年で次男は辞めてしまったこと。

そして、現在でも次男と2人暮らしであること。

こう考えると、4年間で人生はだいぶ変わるものだと感じた。

未来は予想しても、その通りにはならないこと。

4年後には私は65歳。

定年退職をする年である。

どんな人生を歩んでいるのだろうか。

また4年後の65歳の自分にメッセージを送ろうと思い、そのシステムを探してみたがすでに廃止されていた。

どんな人生を歩んでいようが、一生懸命に生きるしかないことは分かっている。

一生懸命生きてさえいれば、どんな人生でも悔いはない。

結果は努力の後からついてくるものだと信じている。

それが自分の生き方だから。